第九十二話 ピッチャー

野球のピッチャーはとりあえず、ボールをキャッチャーに投げれば良いわけです。そんな草野球を楽しむ方法もあります。それはそれで良い。でも、毎週やるとすると欲が出てきて、外角、内角、引く目、高めにコーナーを投げ分けたくなります。しょっちゅうやってますと、そういう和気あいあいだけでは満足しなくなる。それが、また、1年、2年と続きますと、もっと欲が出てきて、カーブの投げ方を学んだりして、投げたボールがベース手前から曲がりますと、とっても嬉しいわけです。さらに、それをコーナーに投げわけるとか考えます。これは勝つ為もあるでしょうが、投げられる自分、進化する自分が嬉しいのかと思います。

ヨットでも同じでしょう。とりあえず動くだけなら、それでも楽しむ事はできます。しかし、毎週乗るとかになりますと、セールの角度を調整したり、カーブを見て修正したり、そういう行為をし、セールのツウィストをし、いろんな操作をしたくなります。嫌、そういう行為は今まではレースの世界に追いやってきました。だから、数ヶ月に1回ぐらしか乗れなくなる。何故なら、しょっちゅう乗るという事は、そういう進歩を促す事であり、レーサー以外は拒否してきた事かもしれません。何でもそうですが、プロがあり、アマチュアがあり、草野球があるように、ヨットではレースでは無いが、スポーツとしてセーリングをやるというのは、必ずしもレースで無くても良いと思います。そのスポーツセーリングをクルージング派の方々にお奨めしています。

ピッチャーはこの一球を投げる時、即座に空振りか、見逃しか、打たれるかの結果がでます。ヨットでもそれを同じように結果は出るのですが、非常に微妙であり、ベテランヨットマンはその微妙な変化を感じ取る事ができるかもしれませんが、初心者にとっては難しい、微妙な感覚です。ですから初心者こそ、風向風速計とスピード計を設置して、その変化を確実に目で確かめる事が、必要かと思います。後は、全てのスポーツと共通で、いろいろやってうまくなっていく。その変化を感じ取り、上達を楽しむ。

舵を持つという事は、ピッチャーと同じ。主導権はピッチャーにある。これがシングルなら、守備まで全部自分でやる事になります。相手のバッターは風と波、別に戦って、倒そうという事は無く、相手の力を上手く利用できればOKです。そうできた途端、風も波も見方になってくれる。そういうスポーツです。

そう考えますと、セーリングというのは、かなり主体性のある行為ですね。積極性を要するスポーツです。という事は、できるだけ気軽に出航できるように環境をできるだけ整えておく必要があると思います。例えば、確実に来るクルーとか、或いはシングルハンドならその心配は無い。できるだけ近い保管場所とか、マリーナに来てすぐにでも出せるように、舫いロープなんかもポンポンと簡単にはずせるとか、できるだけ簡単にセーリングの体勢に入れるようにしておく事が大切かと思います。その前に煩わしい事がたくさんあると、それを考えるだけで、気持ちが萎えてしまいかねません。そして、それが習慣づくと、いつも気軽にセーリングができるようになる。

何度も乗ると、ピッチャーがカーブを投げたくなるように、セールをツウィストさせて、風を見てとか、いろいろやりたくなります。それを風速計とスピード計で確認しつつ、上達を楽しむわけです。2時間ばかりセーリングに集中して、そして帰ったら、アフターセーリング、コクピットでうまいコーヒーを一杯楽しみながら、今日の緊張感をほぐします。

うまく行く時もあれば、いかない時もある。そんな紆余曲折の段階を経ながら、何年か経つと、かなり大きく変化している事に気付きます。ピッチャーはカーブをコーナーに決め、次に別のボールに挑戦しようと考える。それと同じように、ヨットマンも舵さばきやセールを見る目がもっと肥えてくる。
それが楽しいか?これが面白いか?それが面白いと思えなければ、セーリングはできません。面白いか面白く無いか、それもある程度やらなければ、これも解らない。

全ての人がピッチャーというポジションを好きでは無いのと同じように、ある人はキャッチャーというポジションが好きだったり、サードだったりするわけですから、ヨットの場合は、旅の方が好きだという人も居るわけで、それで良い。でも、どこのポジションに居たとしても、やはりそこには進歩、進化、変化という物を作り出す積極性、主体性が必要になります。特に、ヨットにはそれが求められます。ヨットは風任せ、ですから、ぼ〜っとしていてもヨットは走る。だからこそ主体的で無いと、遊びにはならないのではないかと思う次第です。

セーリングという遊びを、レーサーから取り戻し、もう一度ベーシックなセーリングという当たり前の事をやってみる。主体的にやってみます。すると、何か新しい物を発見できるかもしれません。スポーツとしての、レースでは無い、クルージング派のセーリング、そこには面白い何かが潜んでいるような気がします。

行為に注目しますと、より大きな事をする事により目が向いて行きますが、デイセーリングという行為は行為そのものよりも、もっと内面の感情を遊ぶ事に注目しなければならない。それを行為としてみるとたいした事はしていないわけですから。すると、つまらない事に思えるかもしれません。しかし、行為から感情に注意を向けてみますと、デイセーリングというのは実に面白い事に気づく。
勝った、負けたという行為、遠くに行くという行為、行為にばかり目をやると、もっともっとという事になりますが、感情に目を向けますと、又違った味わいになると思います。うまくすると、あらゆる時にでも味わいとして、味わう事ができるかもしれません。すると、こうでなければならないという事が無くなり、ただ味わう。それが結構面白かったりする。今日はこうだった。今度はどんなだろう?

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