第五十七話 日本人の感性

先日は中秋の名月、満月はこの時ばかりではありませんが、この時期の満月の高さは、日本家屋で、縁側に座って、屋根の軒先から下に丁度見える高さにあるそうです。やはり日本人独特の美意識と言いますか、情緒と言いますか、さすがという感じがします。日本人の価値観はやはり違います。西洋は物質にストレートに表れる感じがしますが、日本人はそれを取り巻く環境にまで配慮がなされる。たくさんの花束に対して、一輪ざしの美意識。

ひとりで乗るセーリングにはそんな情緒も漂う。風や波に対して戦うのでは無く、調和を見出す。速さでも無く、激しさでも無く、調和。そんな時、ふっと何か感じるものがある。大騒ぎをして楽しむ感性もありますが、また違った感性をも持ち合わせています。善か悪か、楽しいか楽しくないか、正しいか間違ってるか、そういう二元論では無く、その中間あたりに、機微があるような気がします。

現代はそういう感覚を失わせている。全てを良いか悪いかに分離して、即座に判断してしまう。速いか遅いか、効率的か効率的でないか。でも、そういう事を一切考えないで、調和だけを念頭に、そしてその結果がどうであっても判断をしないで、ただひたすらそのまま味わう。それは日本人ならではの感性が必要ではないかと思います。社会は競争、資本主義は競争、勝てば官軍、そんな言葉もありますが、ひたすら戦うと消耗してくる。

そんな時、ひとりでヨットをそっと出す時、競争は無くなり、ただ調和だけを見出す。結果を求めず、ただ味わう時、癒されるのではないかと思います。どれだけのスピードが出ているかは関係ない、漂っていようが、快走していようが、ただひたすら感じる心、それがやすらぐ。

気持ちの持ちようによっては、ヨットはいかようにも変化する事ができます。癒しにもなれば、勝ち負けの道具にもなるし、楽しいか楽しくないかという事になると、何事も楽しい事ばかりは無いので、事有るごとに一喜一憂という事になる。それも悪くは無いが、時には、その中間あたりに心を置いて、調和してみたらいかがでしょうか。良いも無く、悪いも無い。そういう判断をしないで、ただ、味わう。それが簡単ではありませんが。これは考えないという事です。これが難しい。

シングルハンドで、デイセーリングをしていると、邪魔は無いので、いかようにもできる。そうしますと、必ずしも快走だけが面白いわけじゃない。漂うような時も楽しいわけじゃないが、日本人としての情緒が蘇るかもしれません。快走を求めるだけの、快走のみを良しとすれば、それを求めて戦いになる。そして必ず快走にならない時もある。戦いは人を消耗させる。最高の面白さもあれば、最低の時もある。状況に応じて、調和を目指せば、、また独特のじわっと来る満足感なんかも味わえるかもしれません。日本人ならではの感性ではないでしょうか。

つまり、ヨットは使い方によっては、いろんな感性を刺激する事になります。外を見れば、快走を味わい、内を見ればいろんな感情を味わう事ができる。それには、たまにはシングルでセーリングを味わう事によって最ももたらされるのではないかと思います。最高の快走を求めないなんてことは西洋ではありえないのではないかと思いますが、最高のフィーリングは、陸上にあがって、ちょっと気に入らない事があると、すぐに壊れてしまう。でも、中間の味わいはなかなか協力なエネルギーではないかと思う次第です。ですから、これも使い分け。シングルハンドは、こういう時も自由自在なのです。

現代は勝つか負けるか、損か得かで成り立っている。でも、ちょっとヨットに乗って、そんな事を忘れて、ただ感じてみてはいかがでしょう。きっとエネルギーが補充されるのではないかと思います。
それにはデイセーリング、シングルのデイセーリングがお奨めです。

次へ          目次へ