第二十二話 10年という時間

若い方の10年と、年配の方の10年は重みが違う。10年と言いますと、何か始めても結構な期間です。60歳からヨットやり始めて、それから10年、この10年の重みは違います。日本人は一生懸命という言葉が好きですが、遊びという言葉には何か違和感があります。遊びはただの享楽という感じがあるからでしょう。では、遊びという言葉では無く、何かを追求するという言葉はいかがでしょう?それに一生懸命をつけます。否、一生懸命はやめておきましょう。

遊びは2種類あって、それこそ享楽的な遊びと、仕事以外、お金稼ぎとは違う何か、好きな事をやり続けるというのも遊びかと思います。ヨットはその両方になれるわけですが、享楽的な遊びに打ち込める人は少なく、飛び飛びになります。何かを連続的に楽しむコツは、何かを追求する事以外には無いのではないかと思う次第です。それは単なる遊びを通り越して、夢中になれる何か、そういう魅力と深さが必要になります。ただ、楽しいだけでは長く、連続しては続けられないのではないでしょうか。

10年という期間は結構いろんな事ができる長さを持っています。ゼロから始めて、10年も経てば、その期間、どう過ごしたかによりますが、まあ、そこそこには行くでしょう。その10年をどう過ごすかが重要かと思います。享楽的遊びに求めるものは楽しさです。もうひとつの追求型が求めるものは上達、より知る事かと思います。楽しさは時々で良い、上達はしょっちゅうです。

上達したからといって何が残るか?何も残りません。プロになって稼ぐ人以外、何も残りません。でも、上達してきたプロセスでの感覚が残ります。満足感が残ります。所詮、感覚しか残りませんが、
その感覚こそが財産、生きた証として何より、満足感を形成するものではないかと思います。事業で成功した方が多大な財産を築く、その方の満足感はいくら築いたか以上に、感覚としての成功にあるのではないかと思います。

ヨットに上達しても何も残りませんが、それに成功の満足感を得るかどうかは、10年後にどう映るか、10年という期間のプロセス次第という事になるかと思います。結局はいろんな感情を体験してきて、最後にはどんな感覚が残るか、それを築くのは今しか無い。享楽で10年過ごせれば、それでも良い。それで満足できれば良い。そうではない方は、この10年に何かを夢中になってやれる何か、それを得られる方は幸福かと思います。

ヨットをやろうか、と思われる方、どうせやるなら、この10年に享楽だけでは無く、もう少し突っ込んで、自分なりの夢中にトライしてみてはいかがでしょうか?何も、他の事を全て捨ててという事では無く、いろんな事をしても良いかと思います。でも、乗る時には、ただ動いているという事から、動かしているという意識をもって、いかにという意識でセーリングにあたりますと、知るべき事はたくさんあります。たまにしか乗らないにしても、そうやって意識的に乗りながら、乗らない時でもたまに本からでも知識を得ながら、10年経ちますと、一体どうなっているでしょうか?

享楽と追求を分離する必要も無く、使い分けて、意識して乗る。もし、夢中になって、どんどん乗れるとしたら、たった1年であっても、1年後は全く違う感覚を持つ事ができます。ましてや10年ともなれば雲泥の差です。人は享楽を求めますが、同時に罪悪感もある。だから享楽に夢中になる事を良しとしない。たまの息抜きとしてしか許さない。だからしょっちゅうは使えない。でも、追及型なら、ニュアンスは異なります。自分を許す事ができます。だから、夢中になれる。そうなる事を自分でも他人でも許せるし、場合によってはすごいなと感心する事もあります。

追求すると言ってもすごい事にチャレンジする必要はありません。ヨット自体が、他からみればすごい事なんです。それで、後は自分の感覚追及です。自分のヨットに自由自在に乗れたら、それはとってもすごい事です。速いとか遅いとかでは無く、レースで優勝するとかしないとかでは無く、自由自在に操れるというのはすごい事かと思います。10年後にそうなっているとしたら、その満足度はいかばかりか?

自由自在というのは結果ですが、例え、結果が満足の行く自由自在に達しなかったとしても、その10年にはいろんな感情を得たはずです。良い事もあっただろうし、辛い事もあったと思います。しかし、10年を振り返って、きっと総合的には悪い感じは残らないと思います。何故なら、遊びは必ずしも結果を必要としないからです。結果を必要としないから遊びでいられる。その瞬間、瞬間の感じとそれまでのトータルの感じを総合的に味わいながら、その感じを遊ぶ。楽しむ。それでも充分かと思う次第です。ですから、追求するとは言っても、それは手段であり、本当はその瞬間瞬間の感じを味わう遊び。それをトータルで遊びと呼べるなら最高ではないかと思います。結果を求めない行動は全て遊びになり得るのではないか?或いは、瞬間の感情を楽しめるなら遊びではないか?例え、それが最終的には結果を求める事であっても、その瞬間は遊びになるかもしれません

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