第十六話 ぼやき

昔に比べるとセーリングそのものはずっと簡単というか、便利になったはず。しかしながら、昔の方がもっとセーリングしていたんじゃないだろうか?ファーラーなんか使っていない時代、みんな面倒な作業を面白がってセーリングしていたんじゃなかろうか?若い人達も多かった。今では50代でも若手の部類かもしれません。

便利になったのですから、もっともっと気軽にセーリングを楽しむ人達が増えてしかるべきなのですが、実際はその逆になってしまった。風の強さにあわせてセールを交換するなんて時は、みんな真剣にセーリングしていた。セーリングを遊んでいた。でも、便利になるとセール交換は不要で、そんなに真剣にセーリングの事を考えなくても良くなってきました。それはより多くの人達をセーリングに誘うチャンスでもあるのですが、真剣に考えない分、セーリングの気分と言いますか、醍醐味を味わうチャンスが減ったのではないでしょうか?セーリングを意識すればする程、素晴らしい感覚を体験できます。しかし、そんなに意識しなくてもセーリングはできる。でも、受け取る感覚が違う。素晴らしい感覚を受け取る準備ができていないのかもしれません。そうすると、セーリングはエキサイティングでは無くなってしまいます。セーリングはただの、セールを使った移動になってしまう。
それでは、エキサイティングな感覚は失われますから、そんなもんだと思うと、それまで。何ら、特別では無いものに一生懸命にはなりえない。これは便利さが故のマイナスではないかと思います。

反面、キャビンは充実してきたもんですから、乗り手はセーリングから別の世界を作り出してきました。それはキャビンライフであり、おしゃべりタイムであり、ピクニックセーリングであります。それが悪いわけでは無いが、エキサイティングなセーリングがもはや無い事に問題がある。ある若い方が初めてヨットに乗せてもらった時、ヨットの何が面白いのかと疑問に思ったそうです。確かに、優雅かもしれない。爽やかであるかもしれない。でも、躍動感や感動などは無い。

非日常的ではあるものの、大きなかけ離れたものでは無いだけに、さほど興奮する事も無く、非日常性はどんどん日常的になり、しまいにはたいして変わらなくなる。そうなるとますますセーリング自体に特別の魅力を感じる事も無くなる。それは便利になったから。日常セーリングにワクワク気分が無くなると、どこか遠くへの旅こそがヨットの醍醐味と思ってしまう。意識が遠くへ行けば、ますます日常セーリングはワクワクしなくなる。夢は遠くへと。

便利は良い事です。おおいに享受したい。でも、便利さは人に工夫する事から遠ざけますから、人がこの事を意識して、便利になった分もっと面白いセーリングが簡単にできるようになった、ひとりでもセーリングができるようになったと、便利さをもってさらにセーリングを意識しないと、セーリングそのものが面白かったのに、いつの間にか、セーリングを意識しなくなる。便利は人は怠惰にする。便利さだけを享受するなら良いのですが、面白さを同時に無くしてしまう。怖いのはそれに気がつかない事です。オートパイロットは便利です。でも、便利だからと使うと、舵を握らない時、そこに伝わる感覚は無くしてしまうという事になります。便利さを遊びたいのか、感覚を遊びたいのか。

今の時代、便利を拒否する必要はありませんが、同時に面白さも無くしてしまう事がありますから、そこのところを意識し、できる事はできるだけ自分でやって、面白さを味わうようにしなければなりません。そうじゃないと、自分でヨット買って、自分で運営する意味が薄れてしまう。たまに、誰かのヨットに乗せてもらうのと変わらないかもしれません。遊びを面白がる行為は、自分でする。味わう事ですから、便利さに溺れると、面白さは消えてしまう。それがどこかに行く為の手段であるならOKなんですが。どこかに行く為では無く、セーリングが目的なら、便利の極みで、全てがオートマチックになったとしたら、それは便利です。コンピューターを駆使して、セールやエンジンや全てがコントロールされて、係船ロープを放って、オートマチックのボタンを押したら、マリーナから出て、セール展開して、タックもジャイブもオートマチックになったら、全ては便利、楽の極みです。極端な言い方かもしれませんが、そんなセーリングが面白いはずはありません。でも、多くの人達が、ここまでは無いにしろ、それに近づいている事は確かではないかと思う次第です。便利さが悪いわけじゃありません。発明が悪いわけじゃない。使う側の問題です。便利さを取り入れたら、その前よりもっとできる事がある。そうでないと便利だけでは、セーリングは面白く無い。ご用心!

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