第百話 快走デイセーリング

デイセーリングの目的は快走する事です。走りが快となるように、いろんな操作をする事です。そして快になれば、その操作自体も快になります。操作が快で走りが快なら、これ以上の事はありません。そして、この快は他の快とは違い、ヨットでしか味わえない快、それもセーリングでしか味わえない快ですから、ほんの一部の人しか味わえない贅沢な快という事になると思います。

同じ快でも何もしなくて偶然快になるより、自分で操作してそれが快をもたらすのが最も快が高い。ですから、操作を学び、快を求める事になります。学んだ人だけがその最高の快を得られる。やった人しか解らない快という事になります。これはキャビンの快とも旅の快とも違う種類の快です。
このセーリングにおける快を求める快走こそが、デイセーリングの面白さという事になろうかと思います。

それでその快を洗練する事に努めます。同じ操作をするにしても、どうやってするか、それによっては快も違ってくると思います。かなりしんどい思いをしないと操作ができないと、そのしんどさが快を求める気持ちを萎えさせてしまいます。従って、ある程度の操作で快を求め、快が得られれば、それは操作も含めた全部が快になる。ある程度の操作、これをどう作る事ができるか?それがヨットの性能であり、艤装であり、デザインであると思います。

高いスタビリティーは快を得るのに大きな要素となるでしょう。同じ風で、あるヨットは大きくヒールしたりするのに、別なヨットはぐっと支えている。大きくヒールしたヨットは風を逃がす必要があります。或いはリーフする必要があります。スタビリティーの高いヨットはこのまま走れる。この両者の得られる快は大きく違ってくると思います。どちらも走る事はできますが、快が大きく違う。快走を求めるデイセーリングでは大きな違いです。フィーリングの違いです。

舵を握ったまま、何かを同時に操作する。操作した途端に舵を持つ手に伝わります。これも快です。オートパイロットに舵を明け渡して、別な操作をして舵に戻る。これでは快は既に終わっています。結果の快走はあるかもしれないですが、その瞬間の快を感じる事はありません。それでも乗れますが、できれば快をひとつでも多く味わいたいと思います。快が多ければ多い程、面白さが増幅されていきます。

知識を持って頭で考えた事を、操作して、その通りうまくいく。これも快ですね。これも何の知識も無く、偶然快走になった時よりも快は大きいと思います。ですから、ヨットは意図して、その意図がうまく行った時に快を感じます。

ところが、全てがそうなると、つまりうまくいくと、贅沢な話ですが、物足りなくなってきたりします。うまくいかない事が多いとこれも不満ですし、本当に贅沢なもんです。理想は6:4ぐらいで意図的にうまく行き、それに1〜2割ぐらい偶然にうまく行く。残りの2〜3割が意図した通りには行かない。
この程度が理想的かもしれません。その2〜3割を快にする為に、また乗る。うまくしたもので、どんなにうまくなっても、パーフェクトにはならない。自然は無限に変化します。それがデイセーリングの面白さかもしれません。やはり多少の謎が残るぐらいが良いかと思います。

せっかくの休みに豪雨になる事もあります。これは諦めですね。仕方ありません。でも、自然相手ですから諦めもつきます。うまくいか無い部分、でも自分次第では何とかなる部分について、学び、腕を上げ、対応し。より多い快を求める事になると思います。

自然相手ですと、うまく行かない場合も仕方ない事で諦めがつきます。これが自然に対する畏敬の念かもしれません。人工的に作られた遊びですと、人は批判したがります。これがいかんとか、あれはこうすべきとか?でも、自然相手には誰にも文句が言えません。ですから、かえってストレスが溜まらない。こっちから自然のルールに合わせるしか方法は無いわけですから。

快走を求めるデイセーリングを是非、お試し下さい。やって損はありませんから。やって面白かったら、これは言う事無しです。同時にピクニックだって、旅だって楽しめるんですから、全体的に言えば、セーリングの快がひとつ、それも大きなひとつが増えるかもしれません。

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