第三十五話 笑いの法則

何となく思う事ですが、笑いというのは、聞いて自分が知っている事と予期しない意外性が混じっている事が半分づつぐらいあるのではと思います。知らない事ばかりだと、何を言っるか解らないし、知ってる事なら、そうそうと共感できて、次に予期せぬ事で落ちがつく。でも、知ってる事ばかりなら、退屈になる。予期せぬ事がどんな内容かによって、可笑しかったり、悲しかったり。

ヨットも同じで、船体という土台は知っている事、これが安定している事が必要で、そのうえで、セーリングという予期せぬ事を混ぜていく。その予期せぬ事次第では面白かったり、辛かったりなので、そこは自分の腕のレベルと相談しながら、挑む状況を選ぶ事になろうかと思います。慣れてくると、昔、辛かった事が何でも無くなる。面白さを発見したりもします。

ヨットで宴会ばかりしていると、知ってる事ばかりで意外性が無い。だから退屈になる。

落語というのは、ストーリーは知っていても、誰が演じるかによってニュアンスが異なる。ですから、同じ話なのに、何度聴いても飽きない。これはもう、可笑しいという以上に芸術の域ではないかと思います。知っている落ちを、期待して、待ってる。で、最後にそれ来た、と、どっと沸く。これは噺家の腕もありますが、聴き手側の腕もある。

宴会でも、メンバーが違えば、その違いにニュアンスが異なる。或いは、場所を変えるかになる。

セーリングだって、同じ海域を同じヨットで何度も走る人が居ます。幸い、自然というのは同じ、が無いので、それだけでも飽きる事は無い。そこに微妙なニュアンスまで感じ取れるような、神経が集中していたなら、同じ落ち、ここでこうなるという思い通りのセーリングができた時に、良し。と言いたくなる。この風なら、こんなセーリングができるかな、と予想できる。それが思い通りなら、それを楽しむ事もある。

幸い、ストーリーは無限にあるので、こっちがその気なら、無限のストーリーを聴く事もできる。考えてみれば、風と波はエンターテインメントなのかもしれません。舞台を設定してくれているのかもしれません。さて、今日はどういうセーリングをしようか?知ってる事が多くなると、その分、感性に集中する事ができる。同じような風の時でも、より微妙な違いも感じれる。落語の聴き手と同じかもしれません。また、知ってる事が多くなると、辛い事も少なくなる。知らない時に不安だった強風も、面白さに変わるかもしれません。ですから、学ぶ事は遊ぶのに必要だし、体感を重ねる事も学ぶ事だし、学びながら、同時に遊んで、知ってる事を増やして、不安を減じて、面白さ、繊細さ、そういう物を味わっていく。そんなセーリングは目の前の海域で、誰でもできる事でしょう。

学びと遊びが同じなんてのは、これ程良い事は無いですね。楽しく遊べば遊ぶほど、同時に学んでもいるんですから。でも、これにはひとつ条件があります。気持ちがそこにないといけませんね。気持ちがどこか別のところにありますと、学びはできない。楽しいかもしれないが、面白いとまではいかない。そういう気がします。面白いと感じるには、そこに集中してないと感じ取る事はできないと思います。

そこで、ヨットは、できるだけたくさん学んで、知る事を多くすると、半分の50%が大きくなるので、残り半分の予期せぬ50%も大きくなる。よって、もっと面白さを発見できる。そういう事になろうかと思うのですが。ただ、知ってる事で一杯にしますと退屈になります。ですから、これはチャレンジが必要になる。セーリングさえしていれば、後は自然の方がちゃんと舞台を整えてくれますから、セーリングさえしていれば良い。そういう事になります。落語は演芸場に聴きに行かなければなりません。セーリングは海に出なくちゃいけません。同じ事だと思います。

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